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葛飾北斎 (2代目) : ウィキペディア日本語版
葛飾北斎 (2代目)[かつしか ほくさい]
2代目葛飾 北斎(かつしか ほくさい、生没年不詳)は、江戸時代後期の浮世絵師

== 来歴 ==
初代葛飾北斎の門人。2代葛飾北斎と称す浮世絵師に関する資料が4例知られている。およそ文化から天保頃に作画している。『浮世絵類考』には、
:「本所の産なりしが、后に吉原仲の町の亀屋といふ茶屋に成しと。両国回向院にて大画の布袋を書り。錦袋舎名弘の会ありし。大画は度々なり。十六間四方、十八間四方等あり。名古屋にては出山の釈迦を画けり。類考に云、二代目北斎は深川海辺大工町、橋本喜三郎と云しが、いかなる事にか業を止め、後早世と有。又天保頃の或書に、二代目北斎は為一門人、名は辰政、俗称は橋本庄兵衛と云。浅草三谷に住すと有。類考に早世と記すを見れば此人は別人にして三代目かと思はるれど未詳、猶考ふべし。」
とある。井上和雄による『浮世絵師伝』(1931年刊行)によると、
:「二代北斎を名乗りし者二人あり、一は某寺所蔵の大絵馬「武将組打之図」に文化十三丙子歳秋八月吉辰 東都二世鈴木北斎辰政画 江戸南茅場町 願主 橋本市兵衛とせるもの、二は天保十三年版の『広益諸家人名録』二編に「北斎、名辰政、為一翁門人、浅草山谷、橋本庄兵衛」とあるもの即ちそれなり。」
とされている。二世北斎を称する者が2名いたものと考え、さらに、鈴木北斎と橋本北斎の2人が同一人であるという場合も想定している。仮に一の北斎と二の北斎を同一人とみなす場合には、亀屋喜三郎即ち鈴木北斎が、かの大絵馬の寄進者である橋本市兵衛と特別の縁故でもあったものと仮定、後にその人物が氏名を橋本庄兵衛と改めたと理解すべきかという。
まず、鈴木北斎と考えられる作品には肉筆浮世絵「傘持ち美人図」、「羅漢図」、「美人と小僧図」などがあり、全て二世北斎と落款している。また、「雉子図」には鈴北斎と落款している。「傘持ち美人図」は傘を持って立つ花魁を描いており、顔の部分に張りが出て、がっしりした体を持つようになる葛飾北斎期の美人図に倣っている。「十六羅漢図」は横幅1m60㎝に近い大作で、十六羅漢に竜虎を加えて描いている。こちらは為一期の陰影に富んだ人物描写を引き継いでいる。羅漢たちの人物描写にみられるぬめりのような、ぬらりとした湿り気は、虎の毛皮のぬらっとした描写にも良く表れており、二代北斎の代表作の一つといえる。
青葱堂冬圃の随筆『真佐喜のかつら』には二世北斎に関する記述がみられる。全文を以下に示す。
:「一、前北斎為一老人ハ其名四方に高く、幼童といへどもしる程なり、師の弟子に深川高橋に住ける橋本何某が悴喜三郎と云ものハ、幼年の頃堀江六間町なる砂糖店の丁稚奉公につかハしけるが、客のいとまある時、筆をとりてゑがく、されバ自然主人の心に叶ず、終に家にもどる、父も心に任せ北斎門人とす、或日浅草観音へもふで、堂内の掛額の中、雪山等琳が筆をふるひし韓信市人の跨潜の図をよくみて、師のかなたへ行、等琳が筆意、眼をおどろかすばかりなれど、一の失あり、うしろのかたにたち居る衆人の足、小指のあるべき方に大ゆびありとかたる、師すぐさま喜三郎を同道して、かの額をみるに、喜三郎がいふにたかハず、是まで数年多くの人こゝろ付ずありしを、若年のもの見出し候ハ不思議なりと語られしが、此喜三郎二代北斎となり、終惜しいかな新吉原遊女屋の養子となり、画名発せず、末ハいかゞなりしや」
同書によると、北斎門人の深川高橋に住む橋本某の息子、喜三郎が二代北斎となったという逸話が記されている。師から辰政の号とともに雷震の印も譲られたといわれる。
橋本庄兵衛の作品と考えられる作品に肉筆浮世絵「万才図」があり、「応需模先師之図  北斎辰政」と署名している。一見すると、初代北斎かとも思える筆さばきである。本図の上部には讃もあるが讃者は不明である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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